つい先日。
勤務先である銀行の金庫から首尾よく現金8万8千ドルを盗んだ29歳の黒人青年、アーランド・M・ヘンダーソン(Arlando M. Henderson)……だが、分厚い札束を手に持った写真や、ベンツを前にポーズを決めたショットを、フェイスブックやインスタグラムにガンガン投稿したために悪事が露見! 逮捕に至る……という最高な事件があった。
その「分厚い札束を手にした写真」を、今いちど見て欲しい。札束が輪ゴムで留められていることがわかる。おそらく「100ドル札×100枚」ごとに。
この「輪ゴムで留めている」状態がかっこいいのだ。
ヒップホップ、特にギャングスタ・ラップというジャンルが描き出すピカレスクな英雄像の一つに「ラバーバンド・マン」というものがある。「荒稼ぎして大金のやりとりが日常茶飯事なので、現金を束ねて持ち歩くための輪ゴムをいつも手首に数本巻いているドラッグ・ディーラー」だ。
では、彼を悪の道に誘ったギャングスタ・ラップというものを禁止すべきだろうか?
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アートやフィクション、文芸やストーリーテリングは、現実世界に及ぼしうる影響に関して如何なる責任を持つか。
それについて考え始めると必ず我が脳内に浮かんでくるのは、下記の二人だ。
「俺はN.W.Aの曲を聴いたキッズが毒されるのを見てきた」と言ったクーリオ。
一方、「ギャングスタ・ラップを聴いて犯罪に走るようなヤツには、もともとそういう傾向がある」とは、(そのN.W.Aの)ドクター・ドレーの発言である。
これに関してわたしは後者、ドレーの言い分を支持する。フィクションはフィクションであって、現実世界への影響に関しては責任がない。何かに触発されてそうなるとしたら、その要素はもともと君の中にあったものだ、と思うから。生まれ持った傾向、人の奥底に組み込まれた本質ということである。
フィクションに触発されていろいろやらかす連中が出てくることは避けられない。
例えば、ヒップホップ界ではマフィア映画が愛される。世代的に『ゴッドファーザー』よりも『スカーフェイス』、つまりドン・コルレオーネよりトニー・モンタナがリスペクトされており、その影響は大きい。
だからラッパーは、豪邸を買ったら邸内のいたるところに監視カメラを仕掛けるのだ。トニー・モンタナに倣って。
こんなアホな所業を未然に阻止するため、『スカーフェイス』の上映も発売も禁じるべきだろうか?
若者に『水滸伝』を読ませるな、年寄りに『三国志』を読ませるな。
中国には、そんなことわざがある。その心は……前途有望な青少年に、あんなサグ集団が大活躍する物語を与えて、将来を棒に振る結果になってはいけない。同様に、せっかく老境を迎えて落ち着いた世代が、陰謀と策略が横行するストーリーに刺激されて、現実で暗躍する気を起こしてはいけない。
要は、現実世界に害をなす可能性が少しでもある物語を禁止するなら、『三国志』や『水滸伝』も対象となってしまうのだ。
しかしホモ・サピエンスは、ストーリーテリングをやめられない動物である。
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ここで、「生まれ持った傾向」について。
君知るや、丸屋家ではアーサー王伝説が絶対的な地位を獲得していることを。
そのアーサリアンなレジェンドを再構築した小説として、T・H・ホワイトによる『永遠の王』がある。最近風に言えば「リ・イマジン」作品だな。
ここで注目したいのは、アーサー王物語における第二の主役、サー・ランスロットだ。
ランスロット卿といえば美男中の美男、円卓の騎士の中で最もハンサム……として描かれてきた(個人的にはトリスタンに肩入れしたいが)。ところが、『永遠の王』でのランスロットは、とても醜いのである。そして——ここからが重要なのだが——サディストだ。
サディスティックな醜男。『ゲーム・オブ・スローンズ』の原作者ジョージ・R・R・マーティンが、同作で最も憎まれるキャラクター「ラムジー・ボルトン」の原型にしたのは、このT・H・ホワイト版のランスロットかも知れぬ。というのも原作『氷と炎の歌』でのラムジーは、ハンサムなドラマ版とは大違いの醜悪な容貌の奥に、ドラマ版と同じサディスティックでサイコパスな魂を宿した男だから。
Anyway.
『永遠の王』版ランスロットは、自分自身が抱えるサディズムを嫌悪し、常に戦っている。この欠点を補うべく、彼はアーサー王への献身に邁進するのだ。
さらに彼は、自身のサディズムに火がつくことを恐れるがゆえに、他人を傷つけることを避ける。結果として、皆に優しく親切、敵に対しても情け深いサディストが誕生するのだ。
アイロニー!
こうやって欲望と戦うことは……まあ、できなくはない。でも、先天的に生まれ持った性癖や傾向ならば、完全に克服するのはまず不可能だ。旧約聖書の「エレミヤ書」13章23節に「クシュ人がその皮膚を、豹がその斑点を、変えることができようか」とある通り、その人の奥底に組み込まれた本質は、きっと変えられない。
だから、本能と戦うよりもいいのは、代替手段による解消である。
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わたしは夢をよく見る。その夢の内容から判断すると、わたしには暴力的な傾向があるようだ。
だがわたしには、「もともと残酷で有名だった」という名文句で知られる福岡県行橋市の某議員のように「圧倒的な戦力で、敵対勢力を焼き払」った経験はない。
昔から、アンガー・マネージメントならぬ暴力マネージメントを心得ていたからだ。主に、ギャングスタ・ラップのおかげである。N.W.Aを聴いてイージー・Eと一体化することで、リリック内で大量に人を殺し、それによって癒しを得ていた。
Well, 癒しという言葉がそぐわないなら、自慰と呼んでもいい。
多数の暴力と少しだけの性的描写で成り立っているN.W.Aのアルバムを「ヤクザ映画とポルノの二本立て」と呼んだ人がいたが、わたしにとっては違う。暴力こそがポルノだったから。
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暴力を夢想する傾向は、あくまでも傾向でしかない。
「情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」とジーザスが言った通り、夢想は誰もがすることであって犯罪ではないし、それが持って生まれた傾向ならば――あるいは環境によって作られたものにしても――道義的な罪でもない、とも言える(ここでは原罪の話はしない)。
夢想が罪であり犯罪となるのは、実際の行為に発展した時のみだ。
同様に、小児性愛(ペドフィリア)は犯罪ではない。
これは日本ではなく、むしろ米欧において誤解されているようだが……小児性愛とは傾向であって、実際の犯行に及ぶ児童性虐待者(child molester)とは別もの。実際に児童対象の性犯罪を犯した者のうち、小児性愛傾向を持つのは半数未満とも聞く。
傾向としての小児性愛は、同性愛やSM傾向と同じく「豹の斑点」なのだと思う。後天的には如何ともし難い、その人の本質だ。だが、小児性愛傾向と後二者には大きな違いがある。
SMにおいては、Sの人とMの人がうまく出会えればラッキー。男男関係も女女関係も、いい相手と巡り会えればハッピー。社会の少数派であろうと、当人同士が合意すればOKである。
そういった合意のルールも小児性愛傾向には適応されない。夢想の相手である少年少女は、未だ全き判断力を獲得していない存在だから。
それでも。小児性愛者にも癒しが必要だ。代替手段による解消が。
夢想だけで解消できればいいが、それが不可能ならポルノに助けてもらうこととなる。
もちろん、そのポルノの作成にあたって実在の未成年を犠牲にするわけにいかない。だから2次元だ(3次元志向者が2次元で満足できるのか……わたしにはわかりません)。
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『ゲーム・オブ・スローンズ』の話に戻る。
原作『氷と炎の歌』では、物語開始当初のデナーリス・ターガリエンはわずか13歳だが、しっかりと性描写がある。そして、それは小児性愛でも児童性虐待でもない。作品内世界の価値観に従えば。
これは、『氷と炎の歌』の世界が概ね中世ヨーロッパをモデルにしているからだ。その時代のヨーロッパには「思春期」というもの——こいつは近代の発明品である——が存在しなかった。20世紀の終わり頃、ネパールでは15歳の少女が野口健なる人物(当時22歳)と結婚したという話もあるから、現代でも思春期とは人類全員が許容されているわけではないラグジュアリーだ、と言えるだろう。
ただ、映像作品でデナーリス13歳の性行為を再現するのは困難だ。「そんな場面を未成年女優に強いるのか?」という道義上の問題と、「そもそも、その年齢設定では放送業界の規制に引っかかる」という便宜上の問題とがあり、ドラマ版では16歳に引き上げられている(女優は22歳)。
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『ゲーム・オブ・スローンズ』は残酷な物語である。
フェアプレイを心がけた主人公が斬首され、寛容に異民族を受け入れた主人公がメッタ刺しにされ、戦略より愛を優先した主人公がクロスボウで射られ、秘密を知った10歳の主人公が塔から突き落とされ、小人症に生まれついた主人公は父親に死刑宣告され、剣が得意な主人公は利き手を切り落とされ。知らない人は「なんにん主人公がおんねん」と思うだろうが、まあそういうドラマなのだ。
だが、これは「原作者ジョージ・R・R・マーティンは残酷だ!」を意味しない。正直なだけなのだ、人間の本性に関して。彼が「私がどんなに残酷な設定を思いついても、現実の歴史には負ける」と語っている通り、人類の歴史は無残・残忍・冷酷な行ないの連続だから。
いや、それは「歴史」だけだろうか?
『ゲーム・オブ・スローンズ』最終章には、多くの人に愛される黒人キャラクターが無残な死を遂げる、という展開があった。米欧では、そのことを非難する論者も多かったが、わたしは言いたい。「みんな、なに夢見てんねん」と。
現実世界で黒人はどんな目におうてる? いまだに差別され、平均収入は低く、白人警官に殴られ、撃たれ、殺されてるやんか。
理想的な社会を描いて、いま自分たちが生きている現実世界を考え直させるタイプのフィクションもあるし、それはそれで素晴らしい(例えば『スター・トレック』)。他方、『ゲーム・オブ・スローンズ』は理想ではなく、現実そっくりのひどい社会を描くことで、自分たちが生きている世界を考え直させるものだ。
主人公たちの多くが何らかの面で社会的弱者であり、マジョリティとの戦いを強いられている。そこには身長135cmの成人男性や貴族の私生児、塔から突き落とされて半身不随となった少年がいて、劇中ではdwarfやbastardやcrippledと呼ばれる。それぞれ「小人」「私生児」「不具」だ。
しかし日本語字幕では……「小柄な体格」「落とし子」「特別」?
Ninja, please.
酷な言葉遣いをオブラートで包み、そう呼ぶ人がいるという事実、心ない者たちが多数存在するという現実を押し隠せば、世の中は良くなるのか?
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最近、中年男性と女子高生の関係を描くコミック『娘の友達』が話題となった。
勝部元気という人は、こう発言している。
あり得ない。即中止を求める。仮にこのような作品を成り立たせたいならば、主人公が逮捕されて破滅しなければならない。たとえファンタジーでも悪は悪として描かなければならない。
悪が悪として、逮捕されて破滅する世の中。
それこそ、君のファンタジーではないかい?
初めてトークイベントで大阪に行った時。わたしは、堺筋より東側の道頓堀川・北岸を歩いてみて、軽い衝撃を覚えた。
世の中には「18禁マーク」というものがあるだろう? 手を広げて押し留めるような絵柄のアレだ。あの道頓堀川・東端エリアは、そのマークがついた店だらけ。なのに、その店の前には女子高生たちがウロウロしている。
性的搾取はすぐそこにある。だが、そういった店に出入りしている成人男性たちが皆、逮捕されて破滅するか? そうは思えない。
それが現実だとしたら、フィクションの結末だけ勧善懲悪にしてどうなるのだろう。
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誤解するとしたら一見さんだけだろうが一応書いておくと、わたしは世間で言うところの「ポリコレ棒で叩く」側だ。コンプライアンスは単なる処世術だが、ポリティカリー・コレクトネスは他者への配慮だから。
しかし、だからと言って、肌をあらわにした女性が売り物の雑誌、例えば『XXL Eye Candy』とか『KING』はけしからん! 廃刊にしろ!」とは全くもって思わない。必要な人には必要なものだから。
ただ、そういう商品に関しては、求める層にだけアクセス可能な囲いと仕切りがあってしかるべきだ、とは思う。要はゾーニングの問題だ。
これに関しては2次元も同様である。
つまり、『娘の友達』みたいなものは、「僕の心に、君が灯った」などと気持ち悪いポエムな文句をオビに載せとらんで、しっかりはっきりソフトポルノと銘打って(もしくは「女子高生に陥れられる中年男性の悲劇を追うサイコロジカル・スリラー」として)売るべきではないか。
『ゲーム・オブ・スローンズ』のサーセイ・ラニスターふうに言うなら……「王城は娼婦を囲う場所ではない。そのような行為は然るべきところ、つまり娼館に留めるべき」なのである。