子供の頃、というかけっこう最近まで、なにかを大切にするとか好きでいるというのは、いつも心にとめて、いつでもありありと思い出せるようにしておくこと、忘れないことなのだろうという確信がなぜかわたしの中にあった。本を読むことに対する態度もおおむねそういう感じだった。いま思うと、その「愛しかた」は自分に強いるところがわりと大きい。わたしには、好ましい存在から強いられているつもりになるとなぜだか普段よりがんばれてしまうところがあると思うが、そのぶん意識できない消耗もはげしかったのだろうと思う。
はじめて堀江敏幸さんの『雪沼とその周辺』(新潮文庫)を読んだときもそうだった。わたしによくなじむ文章が冒頭から続いて、心地よく読みきったおぼえがある。こんなによいものなのだから、きっと忘れないだろうと思った。
『雪沼とその周辺』には、その名のとおり、「雪沼」という山あいの土地とその周辺に暮らす人たちの短篇が七つ収められている。
冒頭の「スタンス・ドット」では、廃業を控えたボウリング場を切り盛りする老人のもとに、偶然に若者ふたりが訪れる。そして、三人のやりとりのなかにちりばめられたきっかけが、老人をはるかな追憶へと連れていく。過去と現在とを行き来する鍵となるのは、調子を悪くしてひさしい老人の耳が拾うさまざまな音だ。この一篇が、がらんとした場内に自動販売機の立てる音が響いているところからはじまるということは、控えめながらそれをたしかに示しているように思う。
この短篇集の好ましさは、登場人物の感情や思考のスイッチとなる風景や事物のとても細やかな描写にある。動いた感情やはじまった思考よりも、きっかけそのものにこそひきつけられてしまうほどだと思う。
ちなみに、このボウリング場は「リトルベアーボウル」という。老人の思い出のなかには「ハイオクさん」という人物があらわれる。どちらの名の由来も作中で語られるが、「雪沼」にはこのように佇まいのよい名がいくつも登場する。たまにくすぐったいような感じもあるけれど、話の質感をしっかりと細部から支えている。
しばらく時間をおいて二度目に「雪沼」を開いたとき、とてもおどろいた。「そうそう、こういう話だった……」という感覚がほとんど起こらなかったから。あんなに好きだと思ったはずなのに、頭からは消えてしまっているのが不思議だった。先に書いたような魅力についても、わたしはすっかり忘れてしまっていたようだ。それでも、読みすすめていくとやはり引き込まれ、とてもふくよかな気持ちで読み終えることになる。そして、それをよろこんで繰り返してきた。へんに力んだりすることなく、何度も何度も。このたび、大好きな「雪沼」について文を書こうと思ったときに、あらためて読みかえさなくてはいけなかったのはもちろんのことだった。
記憶からこぼれてもこぼれても、大事だと思うし、好きだと思う。その感じをはじめて教えてくれた、わたしにとって大切な本について、生まれてはじめての書評を書いた。