会社の先輩がニヤニヤしながら近づいて来る。
「最近ね、『リンカーン弁護士』っていう映画を見たんだよ。クラシックなリンカーン車に乗っている弁護士の話。とてもブラックな映画だった。だから、君も気にいると思うよ」
このわたしに向かって「ブラック」というからには黒人映画に違いない。しかもリンカーンといえば、キャディラックと並ぶアメリカンなゴツめの高級車ブランドだから、アフリカン・アメリカンの(ステレオタイプな)クルマの好みにぴったりだ。
だが調べてみると、「主演:マシュー・マコノヒー。社会のダークサイドと関わり、危ない橋を渡っている、白人チョイワル弁護士」……え?
なぜそれをわたしに薦める? そして、なぜそれをブラックと呼ぶ?
その出来事は7年半ほど前。
もともとわたしが在籍していたブルース・インターアクションズ社が、スペースシャワーという会社に吸収合併された、その少し後のことである。先に挙げた「先輩」とはSS社側の人物だから、実際にはわたしにとっての先輩ではない。年長なだけだ。
なんにせよ、彼我のカルチャーギャップ、文化の隔たりを初めて実感した瞬間だった。
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そんなことを思い出したのは、その『リンカーン弁護士』がドラマ化されそう……というニュースではなく。平昌オリンピックで銀メダルを獲得したロシア人フィギュアスケート選手エフゲニア・メドベージェワ(19歳)が、来日時にひどい手紙を受け取ったという事件のせいだ。
「お前の顔を見たいと思っている者はいない! 日本で! みんな日本人がお前を憎んでいる! ロシアに帰れ! 日本から出て行け!」と、やや不安定な英語の罵詈雑言(ビックリマーク過多)の最後の方に、
You are black and worst.
という一節が見える。
「お前はブラックで最悪」……ってなんやねん。
あの手紙を巡って、右でも左でもなく日本が大好きな普通の日本人諸氏が「こんなことを書くのは日本人ではない」と抗議していたが……「こんなところでブラックと書くのは日本人である」と思えるぞ、わたしには。
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生まれた時、私はブラックだった。成長しても、私はブラックだ。死ぬ時も私はブラックだ。
しかし君たち白人は……生まれた時はピンクで、成長するとホワイトになる。調子が悪いとグリーンになり、日光に当たるとレッドになる。風邪をひくとブルーになり、死んだらパープル化する。……そんな君たちが私を「カラード」と呼ぶのか?
マルコムXの名言である。
……とされているが、実際にはマルコムの発言ではないらしい。つまり詠み人知らずのようだが、とにかく名言であることには相違あるまい。お前たち白人は体調次第でカラフルに変化するくせに、ずっと黒い肌のままの俺たちを「色つき」呼ばわりするのか、と。
ブラック・ピープルはいる。ホワイト・ピープルもいる。だが「ピンク・ピープル」「グリーン・ピープル」「ブルー・ピープル」「パープル・ピープル」という呼称は存在しない。
でもレッドは? それは、ネイティヴ・アメリカンの通称ではないか!
「絶滅危惧種に関するIUCNレッドリスト」というものがある。
「絶滅」と「レッド」を一度に見ると心が痛むのは、コロンブスのアメリカ大陸「発見」以降、(一説には)人口が95%も減少したという北米先住民の歴史を思い起こすからだ。ともあれ、この名称からもわかる通り「重大な危機」を警告するカラーは赤だ。レッドカード、レッドアラート。
それがあまり問題にならないのには理由がある。
この動画を見てくれ。
白人がネイティヴ・アメリカンの首を絞めているようにしか見えないニューヨーク州ホワイツボロ(すごい名前。Whitesboroだよ)の市章を巡る騒動。そう、お笑い系放送局の番組だが、某FOXニュースよりよほど信用できる『The Daily Show with Trevor Noah』だ。この中で、「レッド」を連発する白人約1名に対して、黒人女性レポーターが顔をしかめているのが印象に残る。
なぜ顔をしかめるのか? 今どき、まともな神経を持つアメリカ人はネイティヴ・アメリカンを「レッド」とは呼ばないからだ。
そして我々(東)アジア系も、もはや「イエロー」ではない。わたし個人としては、とても名残惜しいのだが。
でも「ブラック」は……。
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ヒップホップ観点からNBAを愛すると同時に、古典的なバイナリー性別の線引きを踏み越えている/踏み越えんとしている人々(自分もそうだが)を力の限り応援したいわたしが忘れられないのが、2002年の映画『Juwanna Mann』(邦題は『プリティ・ダンク』)である。
主人公は、素行不良によりNBAから出場停止を食らったハンサムな黒人選手。そんな彼が、自慢の顔にめいっぱい化粧を施して、特殊な下着で胸の膨らみを偽装し……女装して美人アスリートに変身、WNBA(女子プロバスケットボールリーグ)入りするのだ!
そこに至るまでに、スポーツ・エージェンシーの担当者を脅して協力させる場面がある。
担当者「私をブラックメールするつもりか!」
主人公「いえ、ブラック・フィーメイルよ」
Blackmailとは恐喝のことだが、同じ発音のBlack maleなら黒人男性の意味。今後、主人公は女装して生きるから、Black female(黒人女性)だ、というわけだ。
つまり、黒人たちは自分をブラックと呼び、同時にネガティヴなニュアンスの「ブラック」も、それはそれで慣例として受け入れているのだ……と読み取れる。
だが最近では、黒人の意味のブラックを避ける傾向は確かにある。特に政治や学問に関わる場では、今やたいてい「アフリカン・アメリカン」だ。
とはいえ、「アフリカ系アメリカ人? そんなまどろっこしい言い方すな! ワシはブラックでええねん」と誇り高く宣言するスモーキー・ロビンソンのような人もいる。そんなスモーキーに限ってライトスキンなのが、とても興味深い。
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ブラックマーケット。ブラックリスト。
そういった語彙が簡単に消え去るとは思っていないし、「廃止しろ!」ともわたしは言わない。
しかしだな。我が国で使われる「ブラック企業」は、ごくごく近年の造語であろう?
一説には90年代後半誕生という。やっぱり最近やん。そんな時代になって、ブラックを悪の意味で使った新語をわざわざ作り出すとは。
なんで「脱法企業」「危険企業」にしなかったのだ? ドラッグ関連では、そういう語彙をどんどん増殖させるくせに。
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中華圏ではブラックリストを「黑名單」と言う。レストランのメニューは「菜單」だから、名称がリスト化されたものが「單」なのだ、と理解できる。一方、「黑社会」はギャングの意味、「洗黑錢」ならマネーロンダリング。まあ、東アジア全体で伝統的に「黒」はネガティヴな意味合いを持ってきたのだろう。
だが昨今の日本は……その伝統の火を絶やすな!とばかりに、油を注いでしもてへんか?と感じることがある。
例えば、『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』。原題は『Fantastic Beasts: The Crimes of Grindelwald』であり、そのGrindelwaldなる魔法使いを演じるのはジョニー・デップだ。
ジョニー・デップは白人だし(ネイティヴ・アメリカンの血デンデンはネイティヴ・アメリカン側に認められていない)、この役柄ではさらに白く見える。どこが「黒い」魔法使いなのだ?
ずいぶん前に、うちの母がギリシア神話のブラジル翻案映画『Orfeu Negro』の邦題『黒いオルフェ』を聞いて、「邪悪なオルフェ」の意味と勘違いしたことがあるが……これからの日本も「黒=悪」を奨励していくのか?
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一方、ホワイトは。
商品そのものの「黄ばみを落とすパワー」、購買者の皆さんの「家内安全のための夫婦協力」、さらには自社の「労働環境のアピール」……「#BeWHITE」は一石三鳥だ、ということ? 欲張りすぎやろ。
洗剤がホワイトなのはわかる。極悪企業を「ブラック」と呼ぶ社会なら、その対義語がホワイト企業なのも理解はできる(賛同はしない)。
しかし、「家事の分担」がホワイトなのはなぜだ? ポジティヴなものは、何でもかんでもホワイトか?
黒人有権者に向かって「わたしの肌は白いが、心は皆さんのように黒い」と清き一票を訴えた白人議員候補や、カルチャー・クラブのデビュー曲“White Boy”を「軽薄なやつの意味」と説明した(らしい)ボーイ・ジョージの潔さが恋しい。
時おり思うのは……この国の人々は確かにアホだが、メディアや大企業、時にはお役所の方が、民衆よりも愚かなんちゃうか、ということだ。
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メディアといえば。
例の「埋めがたい文化断絶」の某社に、「ももクロ黒塗り」事件を聞いて「そんなことくらいで目くじら立てなくても」と言ってのけた上長もいたな……。
最近、その時代錯誤ぶりで我が金色の脳細胞をクラクラさせてくれたのは、草笛光子&市村正親の芝居『ドライビング・ミス・デイジー』だ。ムラのある黒塗りでモーガン・フリーマンを気取る市村正親の写真が、なんとも破滅的だった。
わたしは思う。この芝居に関しては、蜷川幸雄の手法を応用すべきではなかったか、と。つまり、舞台を日本に置き換え、この列島ならではの「被差別者と被差別者の物語」として再構築するのだ。
黒人運転手ホークは、アイヌかウチナンチュの男性。ミス・デイジーは、裕福な在日コリアン老婦人にしよう。焼き討ちに遭うのはシナゴーグではなく、焼肉屋の近所にある教会だ。
こうすれば対岸の火事ではなくなるし、「自分たちが運転手とミス・デイジーの両方を蔑む抑圧者側」と理解できるだろうから。君自身がシサム/イルボンイン/ナイチャー/ヤマトンチュならば。