今年米寿になる父はとても元気で山登りを趣味にしている。ただ、耳だけはかなり遠い。補聴器もあるのだが、周囲のノイズを拾って不快らしく着けたがらない。それでも、家族といっしょにいる時は、それなりに会話をすることができる。微妙にちぐはぐになりつつも、やり取りが成立するのだ。聞こえているわけではない、と思う。父はその場の流れを読んで、相手はだいたいこういうことを云っているんだろう、と推測しているようだ。
その感じはなんとなくわかる。言葉の通じない外国に行くと、私も似たようなことをするからだ。観光客である自分に対して相手が云ってくることはかなり限定されるから、聞き取れなくても推測が可能。でも、だからこそ、その場のシチュエーションにおいて想定外のことを云われると、とたんにお手上げになってしまう。
十数年前に初めてフランスに行った時のこと。レストランで「水をください」を云ったら、ウェイトレスに何か聞き返された。フランス語なら当然わからないけど、どうやら英語らしい。でも、どうしても聞き取れない。仕方なく「水をください。水、水」ともう一度頼んでみた。でも、また何か云われる。その繰り返し。とうとう肩をすくめられて、水は貰えなかった。悲しかった。
こんな短歌を思い出す。
ティーが通じない私はただティーが飲みたいのですティーがワン・ティーが
平山絢子
「ティー」という言葉の繰り返しが「通じない」ことの悲しみを、その純度の高さを伝えている。
後日、レストランの水の話を友だちにしたところ、「それはたぶん、ガス入りかガス無しかって聞かれてたんじゃないかな」という意見だった。ああ、と思う。そうだったのか。自分が普段行くようなレストランでは経験したことのないやり取り。だから、想像できなかったのだ。
先日、京都に行った時、河原で右手を高く上げているおじさんを見た。何かを持っているようだ。と、どこからかトンビたちが現れて上空を旋回し始めた。おじさんが手を振ると、一羽が一声鳴いてから、突っ込んできた。何かが宙に放られる。パンだ。見事にキャッチ。トンビは旋回して去ってゆく。へええ、と思う。ちゃんと返事をしてから貰いにくるところに感心。「いくぞ」「ちょうだい!」「ほら!」「はい」って感じだ。トンビと心が通じてるなあ。
逆に、通じないことの悲しみをもっとも切実に感じたのは、猫を病院に連れていこうとした時だ。友だちから預かった猫の目に異変を感じたので夜間診療に連れていった。でも、猫にはその意味がわからない。病院とか治療とか、自分を助けるためだってことが、どうしても伝えられない。とても怖がって可哀想だった。通じない、ということに絶望した。
(ほむら・ひろし 歌人)