丸屋九兵衛

第15回:サムライ自慰ポルノと武士道の発明。愛國戰隊大日本に至る道を新渡戸稲造と共に

オタク的カテゴリーから学術的分野までカバーする才人にして怪人・丸屋九兵衛が、日々流れる世界中のニュースから注目トピックを取り上げ、独自の切り口で解説。人種問題から宗教、音楽、歴史学までジャンルの境界をなぎ倒し、多様化する世界を読むための補助線を引くのだ。

「サムライは刀なしでは戦えない」。

  ……本気でそう思っているなら、君はサムライを知らない。
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 その歴史のほとんどを通じて、サムライのウェポン・オブ・チョイスは弓矢だった。

 普通の日本人の皆さんは、接近戦で斬り合うサムライたちを妄想するのが好きなんじゃないかと思う。想像している分にはかっこいいが、しかし、実際にその場に身を置くのはリスキー極まりない。
 誰だって、遠く離れた安全圏から敵を攻撃したい。自分に危険が及ばぬうちに相手を殲滅したい。それが人間というものだ。
 だから弓矢である。

  ここで、我が国の航空自衛隊でも次期主力機となるアメリカの最新鋭(しかしポンコツ)戦闘機、F-35について考えてみよう。
 興味深いのは、この最新鋭機が接近戦でF-16に勝てない、と当の米軍関係者も認めていること。F-16ファイティング・ファルコンとは現在のアメリカ空軍の主軸となっている小型戦闘機で、つまり軍事的ポジションにおいてF-35ライトニングIIの先輩にあたる。
 新世代のくせに旧世代に太刀打ちできないとは! そんな新型機のどこにメリットがある?

 メリットは、ステルス性とミサイルにある。
 卓越したステルス性によって敵のレーダーに映らないうちに、優れた電子能力で相手の位置を探知し、遠距離からミサイルで決着をつけること。F-16と違い、F-35はこういう戦術に長けているのだ。安全圏からの攻撃、ここに極まれり(ただF-35で飛ぶこと自体は安全でないのだが……詳しくはまたの機会に)。
 そんなF-35にとって、至近距離からヴァルカン砲を撃ち合う接近戦は最後の手段である。

 サムライにとっての刀と同様に。
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 とはいえ。
 サムライというものも歴史が長い。平安時代の天皇や貴族に仕える親衛隊的な立ち位置から始まり、地回りヤクザ的な腕力を利用した税金徴収係を経て、やがては政権の担い手となり、江戸時代には公務員集団に落ち着く like 八丁堀の旦那。
 この間およそ千年、ずいぶん長い。そして、長期間にわたる事象を十把一絡げにして断言したものは、たいてい間違っている。だから、「サムライは刀なしでは戦えない」を全否定するのも危険に思えるかもしれない。
 しかしだ。
 先ほど書いた通り、まず戦(いくさ)が盛んな時代のサムライたちにとって、主な武器は弓矢だった。
 徳川幕府の支配が確立された江戸時代、公務員となった武士たちは、確かに弓矢と縁遠かったろう。戦争もないわけだし。特に、将軍の膝もと・江戸で文官として働く役人連中に至っては、狩猟の機会も少なかったことが想像される。
 同時に、所属が中央であれ地方であれ、彼らは政府のモロモロを司る文官だ。であるからして、刀を使う機会がそうそうあったとも思えない。使うとしたら、個人的趣味としての辻斬りか、職業としての死刑執行か。どちらにしても、通常の意味での「戦い」ではないし、「武士の魂」デンデンでもない。
 となると、「サムライは刀なしでは戦えない」というフレーズは、「いつの時代のどんなサムライに言及してのものなのか」と問いたくなる。

 君が夢見た武士の姿は、どこにあるんだ?
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 しつこく引用してきた「サムライは刀なしでは戦えない」は、ニューバランスという靴屋の宣伝に使われていた文句である。そう、アメリカ黒人にとっては「白人の象徴」とされるスニーカー・ブランドだ。
 こういう言い方をするとアレだが、外国人がサムライに幻想を抱くのは仕方ない。The grass is always greener, 隣の芝はなんちゃら。自動的に美麗フィルターがかかっているからだ。
 ファンタジー&イマジネーション。つまりは妄想であり、それは外国人の特権である。

 しかし、当の日本人がサムライに陶酔しているのは、控えめに言っても奇異である(エド・シーランあたりが「俺たち騎士だぜ」と酔って歌っているところを想像しよう)。
 サムライ・ブルー。
 サムライ・ジャパン。
 サムライ、サムライ、サムライ、マイ・アス。マダファカ。

 昔の日本は、ここまでサムライを連発していなかった気がするのだが。なんでそんなにサムライが好きになったんだ?
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 武士道。
 この三文字は、時として魔法の言葉のように使われる。
 だが、本当に武士たちが「道」に則って生きてきたのかどうか。

 例えば最初期、平安や鎌倉時代には「御恩と奉公」という言葉があったほどで、武士と主君の関係はあくまでクールなギヴ&テイク。基盤にあるのは忠誠ではなく、経済的互恵性だ。そののち、戦国時代には「卑怯と言われても戦いに勝つことが重要」「武名を高めて出世しよう!」という思想が一般化する。時にはストイックではあるが、とってもリアリスティックである。

 君が夢見た武士道は、どこにあるんだ?
 たぶん、どこにもないのだ。君の脳内以外には。
 もしくは新渡戸稲造の著作の中以外には。
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 ニトベ イナゾウ。
 デッド・プレジデンツならぬデッド・フィロソファーズの一人、元・五千円札の人。日本史上、紙幣にその姿が刻まれた人物の中で、おそらく最も知名度が低い男だ。少なくとも、故国であるこの日本での知名度は決して高くない。二十年以上にわたり五千円札の顔を務めてから御役御免となった今でも、知名度は大したことないだろう。

 そのニトベが19世紀の最後ギリギリ、1900年(明治33年)に著したのが、『Bushido: The Soul of Japan』である。この本で描き出されたのが……つまり武士道である。というか、「武士道」である。
「御恩と奉公」でもなく出世志向でもなく。そこで重んじられるのは、義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義・自制、さらには孝・智・悌! 美しい、あまりに美しいファンタジーだ。
 これが英語圏で受けた。えらく受けた。時のセオドア・ルーズベルト大統領も愛読者の一人だったという。うむ、エキゾティシズムは常に有効だからな。
 のちに和訳も出されたが、ポイントは「もともと英語で書かれた本」であることだ。明治時代、日清戦争の後。欧米列強から日本に、警戒と好奇の入り混じった視線が注がれる時代。そんなアジアの新興国が欧米に対して放った精一杯の自己主張であり、背伸びがちのプロパガンダと理解しよう。

 しかし。
 理性ある人なら、メディアを通じて外国人向けに誇張された母国の姿を素直に信じるだろうか?
 否、それはまるでザ・グレート・カブキを見て「ああ、これが歌舞伎だ」と信じ込むようなものだ。実際には海老蔵が毒霧を吐いたり、吉右衛門がオリエンタル・クローを披露したりはしない。こうしたことを常識として自然にわかるのは、その文化に生まれた者の特権だ。

 ……のはずなのだが。
 新渡戸稲造が描いた『Bushido: The Soul of Japan』は――もしかすると、著者自身の意図にすら反して――母国・日本の大衆をも見事に洗脳してしまったような気がする。日本人が「武士道」に酔いしれたのは、太平洋戦争期と、そしてここ最近と。約半世紀ごとに盛り上がる凄い人気周期だ。

 過剰に美化されたサムライ(偶)像にのみならず、「武士道」という言葉自体も新渡戸稲造が作ったものなのかもしれない。辞書に現れ始めるのも、件の本が出た1900年以降だというから。
 ちなみに、わが国で夫婦同姓制が施行されたのは1898年(明治31年)。ほぼ同時期に創作された「伝統」二つ、ということか。
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 世界的に人気のファンタジーTVドラマシリーズ『ゲーム・オブ・スローンズ』に“ハウンド”ことサンドー・クレゲインというキャラクターが出てくる。乱暴な言葉遣いとラフな外見の下に、弱い立場の女性たちを気遣う心を秘めた巨漢だ。
 騎士を輩出してきた地方豪族の出身。彼自身、王子のボディガードを務めているが、騎士叙任を欲している様子はない。というのも、廃位された前王子の妻を強姦し殺した自分の兄(さらに巨人)が騎士に任じられたことから、騎士道なるものを全く信用しなくなっているのだ(だからこそ彼が真っ当な人間であることがわかるのだが)。

 新渡戸は武士道を「ヨーロッパの騎士道精神」になぞらえているが、これが最大の笑止ポイントである。
 中世ヨーロッパの騎士たちが、いかに冷酷で暴力的で、人徳とは縁遠い存在だったか。どれほど日常的に、性的なものを含む暴行を平民に対して加えていたか。そうした過酷さ、いわば「中世リアリズム」をファンタジーに持ち込んで世界的人気を博しているのが『ゲーム・オブ・スローンズ』なのだし。
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 ザ・グレート・カブキの素晴らしさは、勢いで決まった設定を自文化パロディにまで高めたことにある、とわたしは思う。『ニンジャスレイヤー』より三十年早いし、そもそも自分で自分を笑いのめしている。そのアイロニーが気高いのだ。

 同様の崇高な自虐ギャグは、『愛國戰隊大日本』にも見ることができよう。 岡田斗司夫、赤井孝美、庵野秀明らにより、1982年に作られたアマチュア特撮ショートフィルム。ソ連脅威論の立場を取っているように見えて、実は右翼を笑い倒している快作だ。だって、アオレンジャーにあたる隊員の名前が「アイ・ハラキリ」だよ。
 マトモな神経の持ち主であれば、あれを見て右側に走ろうとは思わないはずだ。
 それなのに! 世の中には「あの作品で愛国に目覚めた」と語るパラッパラッパーがおり――杉田水脈という名前だ――それが国会議員をやっているという事実に、この国の知的退行の凄まじさを思う。
 そういえば、新渡戸稲造の『Bushido: The Soul of Japan』がここ日本で再び脚光を浴び始めたのも、やはり1980年代だったと一説に聞く。

 どうしたのだろう。幻想を幻想として受け止められない病が進みゆく、この三十余年の日本。わたし自身は国家に対する忠誠心を持ち合わせていないものの、あまりにアホばかりだとわたしのような個体は生きづらくなるな、と思う。