PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

ゼミは怖いが、この本は優しい

PR誌「ちくま」に寄稿していただいた、『情報生産者になる』に関するエッセイです。書き手は遙洋子さん。『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』の著者である遙さんは本書をどのように読んだのでしょうか?

「ここまで手の内を披露するとは……」。読むなり感じた。読み進むほどに唖然とし、やがて、今の上野千鶴子氏だから書けるメッセージだと確信した。ひょっとしてこの書は四〇年間にわたる"教師"上野千鶴子の"卒業論文"ではないか……。

 そこに通底している精神は「ぜーんぶお見せする」だ。「学知は公共財」という上野氏らしい気風の良さと惜しげのなさが全編通してある。私は東大上野ゼミを一九九七年から三年間経験させていただいたが、随所に当時を彷彿させる言葉や出来事が描かれ、そうだった、そうだったと懐かしく読んだ。中でもゼミ発表者が遅刻し教授から「時間資源」を浪費させたと責められ学生が泣きだすエピソードなど、上野氏は「上野ゼミでは学生を泣かす、とウワサが立っていましたが」とし、それは事実と認めている。その現場に私はいた。驚愕の光景だが「そうか、こうやって、こういう言葉で追い詰めるんだ」と、タレントの私にはそこでの発話の多くが血となり肉となった。学生を泣かす。それほど本気で育てていたのだと、改めて理解できる。泣かせてまで教えたかったこと、それはね……、と、学問にまつわる技術や作法まで噛んで含めるように、懇切丁寧に描かれている。上野ゼミの厳しさの歴史の証言者を自称する私だが、「ここまで書くか」の徹底ぶりは、学者として後に続く人たちへの優しさに満ちている。そう。この書には上野千鶴子氏がゼミでは決して見せなかった別の顔が凝縮されている。学生に「あんたの信念は聞いてない」とピシャリと真顔で発言を止めるシーンなど、現場にいたらオットロシく凍る一瞬だったが、曖昧を微塵も許さなかった本意を解き明かしてくれる。本書からは徹頭徹尾、後に続く研究者への愛情を感じてならない。

 ゼミを指し「もっともぜいたくで豊かな教育環境」と上野氏が言うように、そこでは学ぶことが多い。発表者には過去の文献への批判や問いがなければならず、聞いた学生たちは発表者へのこれまた批判や問いがなければならず(ないと、教授は途端に不機嫌になる)、議論に個人の信念が混ざると途端に「違う」と叱られる。

 じゃいったい何を喋ればいいんだ!と追い詰められひねり出す言葉の訓練は、タレントでなくても強い武器だ。上野ゼミのすごいのは「怖いから黙っておこう」もまた許されない逃げ場のなさにある。参加したなら必ず発言せよ的プレッシャーは度胸を磨いてもらえた。後にあの『朝まで生テレビ!』で討論する時だって、「上野ゼミほど怖くないもんねー」と出演できた。

 そもそも「討論に勝ちたい」が、この書でいうと私の「研究の動機」になる。上野教授から卒業論文を提出するよう言われ、分からないままに書いた。明確な目標はあった。それは「教授に笑ってもらう」だ。単位を必要としない私の論文など教授には読む義務がない。それを読んでくれるというのだから、面白かった、と言っていただこうと思って書いた。論文の書き方の項目に詳細が書かれているが、「誰に宛ててどんなメッセージを届けたいのか?」を明確にせよ、とある。くしくも私は意識せずして、正しい論文の書き方をしていたことを発見した。動機「討論に勝つ」研究「なんでこんなに腹立つのか」クレームの相手「討論相手と社会」誰に届けるか「上野教授とゼミ仲間」目的「笑ってもらう」。私の卒業論文は後に上野教授と筑摩書房の藤本由香里氏によって『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』という書籍にしていただけた。私は三年かかったが、この書を読むことで誰もが論文を書くことができる。書きたくなる。書けそうな気がする。この書は上野氏の優しい顔が登場するが、先日の会話では私に「ゼミではあなたに厳しくしたとあなたは言いますが、あなた"だけ"に厳しくしたわけではありません。他の生徒と"同様に"厳しくしただけです」と""の言葉を際立たせて発声する上野氏は怖キャラのままだった。本は優しい実物怖い。私はそこにゾクゾクしてホッとする。現在も学者として精力的に活動する上野氏の「上野ゼミのDNA」はこの書にある。