単行本

これからのナチス時代の描き方
『ベルリンは晴れているか』刊行記念対談

深緑野分さん二年ぶりの新刊長篇『ベルリンは晴れているか』の刊行を記念して、深緑さんとドイツ文化やミステリの紹介などで活躍するマライ・メントラインさんとの対談を行いました。なぜ深緑さんは第二次大戦後のベルリンを舞台に選んだのか、そしてドイツ人であるマライさんは作品をどのように受け止めたのでしょうか。

マライ 『ベルリンは晴れているか』はジャンルとしてはミステリなんだけど、そんな単純じゃないなというのがトータルな感想です。悪かったのはナチスなのかドイツなのかとか、市民はアウシュヴィッツのことを本当に知らなかったのかとか、ドイツ自体の罪の問題が多層的に語られているのですが、この小説が良いのは皆なんだかんだ自分に言い訳をしながら、深刻な罪をなんとかチャラにできないかと思いながら生きているのが鮮やかに浮かび上がってくるところだと思います。そうして浮上した罪の多層性というものが、最後にうまくまとまるのが凄い。戦後に生き残ったドイツ人の罪の博覧会みたいなところがあると思いました。
深緑 あははは、博覧会。
マライ 当然、フィクションだから推察なんですけど、当時のドイツ人の感情について「ああ、なるほどこうなんだ」というのが感覚的にわかるようになっているから、ただの小説じゃないなと思います。
深緑 よかった、ありがとうございます。
マライ ドイツ人だと逆に書けない作品だと思います、あまりにインサイダーな話なので。ティムール・ヴェルメシュの『帰ってきたヒトラー』(森内薫訳、河出文庫)もドイツ人の実態をよく描いていましたけど、それは著者が移民系の作家で、ドイツにとってインサイダーだけどアウトサイダーでもあるから書けた。それと似たテイストがあって、それが深緑さんのなぜか生じているドイツに対する執念みたいなものに結びついた感じがします。
深緑 ドイツに対する執念(笑)。
マライ 脇役であるロシアに対しても深緑さんはロシア語を調べてしまうくらい執念が生じていて、良い小説はそういうところから生まれるものだなと感じました。
 また『戦場のコックたち』(東京創元社刊)と作風が異なっていて、『戦場のコックたち』の場合はミリタリーのパートとミステリのパートでBGMが違うみたいな感じで明らかに分かれていたけど、『ベルリンは晴れているか』のほうは混然一体としていて普通の小説に近い。もちろんミステリではあるのだけども、そこのテイストの違いを読者がどう読むのかが興味深いです。
深緑 本格ミステリ的には『戦場のコックたち』のほうがわかりやすいかもしれないですね。

     ◇

マライ 私はドイツ人だけど作中の時代を生きていたわけではないので、結局日本の人たちと似た感じであの時代を見ていると思います。でも先ほども言いましたけど、やっぱりドイツ人として書ける部分もあれば、ドイツ人だからこそ書けないところもある。ナチス時代があまりにもタブーが多いというのもあるし、ポリティカルコレクトネスに配慮しているのかもしれないけれど、どうしても決まった描き方になってしまう。この作品はそういう部分がないのが面白い。
 戦時中のドイツ人が何を考えていたかというのはある意味ミステリで、彼らは彼らで本音を言っていないに違いなくて、そのバイアスを考慮しながら読み解いていかなくてはならない。それ自体が現代ドイツ人にとっても謎ときであり、今でもナチス時代を描いた作品が生まれるわけだと思います。だから、その読み解きのひとつの試みを深緑さんがやったのは、とても価値が高いと思う。
深緑 恐れ多いです。
マライ そもそも、ドイツのミステリでナチス時代について書かれるようになったのも最近なんですが、結局みんなナチスを見てしまっている。その時代に生きていた人たちをちゃんと描いたミステリってまだあまりないと思います。あるとしたらクラウス・コルドンの三部作(*1)だと思うけど、コルドンの場合もポリコレの呪縛にはまっているところはあって。
深緑 コルドンの三部作は今回の本の参考にもしてます。そういえばドキュメンタリー映画『ゲッベルスと私』はドイツではどういうふうに受け止められたんですか? 
マライ どうも日本では映画で描かれたポムゼルさん(*2)はちょっと可哀想という捉えられ方だったらしいけど、私から見てそれはありえないですね。日本だと大学教授でも浪花節的な同情論に染まってしまうイメージがあります。ドイツのインテリ層はそれがなくて「なぜこの人は平気で矛盾したことを言うんだろう」と考える。
深緑 それを聞くと腑に落ちる感じがしますね。
マライ それと照らし合わせても、『ベルリンは晴れているか』はよく書かれた小説だと思いました。ドイツ人が葛藤を抱えたとき、葛藤を打ち消すのでなくて矛盾を並存させて自己憐憫にひたるという特性があるんですけど、主人公のアウグステはその感じがあるので、よく調べているというか、よくぞそこまで辿りついたなと思いました(笑)。
深緑 『ゲッベルスと私』でいうと私も日本人的な見方をしていて、ポムゼルさんにせよ、アウグステにせよ〝理解ができるのでは〟というところから入ってしまい、「この人は何が悪かったのか」みたいな分析より理解を優先させたのでこういう話になったのかなと。
マライ 分析から入るとSFになって、例えばP・K・ディックの『高い城の男』(浅倉久志訳、ハヤカワ文庫)でナチス幹部を「こいつらの本質はこうだ」と並べて説明する感じになってしまいがちな気がする。それだと、この小説のエンディングの美しさがなくなっちゃう。
深緑 ミステリを使うと一本道な人間じゃなくて、人間の裏側というか、この下に何があったんだろうというのを書くことができる。逆にいうとミステリだからここまで来られたのかもしれない。アウグステとコンビになるカフカもそうですけど。

     ◇

マライ 前に深緑さんと話したときに面白いなと思ったのが、深緑さんが皆川博子さんの系譜につながる作家として見られているということなんですけど、なぜそういう話が出てくると思いますか?
深緑 私がデビューしたときから言われているのですが、実はそれまで皆川さんの作品を読んだことがなくて、慌てて読んではまっていったというのがあります。多分、作家としての親和性はそんなにないと思うんです。外国を舞台にしていて、しかもミステリを使っていてというくらいかな……。皆川さんは耽美の方ですが私はどっちかっていうとエンタメ寄りになるので。例えば『ベルリンは晴れているか』で書いた、改造した木炭ガス車で爆走するみたいな場面は皆川さんは書かれないと思います(笑)。
マライ 私が思うのは世界とか人間の矛盾とか、ダークサイドに対する怒りとか悲しみに対する執着があって、それを言語化して現実に叩きつける迫力や美しさ、それでもって心理を深く描いていくところが皆川博子さんの系譜かなという気がしています。
深緑 私自身は小さいころに通った教会がなぜかシオニズム寄りで、『マイム・マイム』をヘブライ語で歌えたりホロコーストを教わったりしてユダヤに対する強い関心があった。あとベルリンの壁が崩壊したニュースもすごくよく覚えているんです。テレビの中で大人たちが集まって何かすごいことが起きていると。ドイツより先にベルリンという都市名を覚えたくらいです。
マライ 私も同じ歳だからよく覚えています。
深緑 『アンネの日記』も子ども用のものを読んでいて、私の知らない何か凄まじいことが過去に起きたというのをずっと引きずっていました。また、私の親の友だちで東ベルリンに転勤する人のお別れ会を家でやったこともあって、ベルリンという街やこの時代に対しての自分でもよくわからない執着が子どものころからあったんですね。
マライ それは日本的に言うと縁があったという感じですね。
深緑 ずっとベルリンとかナチスとか第二次世界大戦とかユダヤ人とかに興味というレベルではない執念があって。
マライ ドイツに対する興味だけじゃなくて、元々日常で感じている疑問とか矛盾とか怒りをドイツを通じて昇華させるという部分もある気がします。
深緑 そうですね、私は子どもの頃から「なぜこの世界から飢餓がなくならないのだろう」とか考えるタイプでした。両親がそういう話が好きだったというのもあって。
 家でもNHKとかTBSとかのドキュメンタリーがずっと流れていて。親が戦争映画も好きだったから、私のトラウマ映画が『地獄の七人』だったんです。ヘリが来て、みんな取り残されてしまうところがすごく怖くて泣きながら逃げて、「これは何なんだ!」と言うと親がベトナム戦争とかの話を真面目に教えてくれたり。
マライ 人間の心の中にあるグレーゾーン的な部分に興味があるのかなと『ベルリンは晴れているか』を読んで思ったんですけど。
深緑 子どものころは「こっちは良い、こっちは悪い」というように善悪を分けたがるタイプだったんですけど、終戦間際に徴兵されたドイツの少年たちを描いた映画『橋』を観たりして、「なるほどこの世界は善悪では分けられないのである」みたいなことを発見してそこを突き詰めていったところがあります。
 やっぱり日本は敗戦国だし、他国を侵略し殺した側で、私がどんなにそれは悪だと思い自分は善でありたいと願ったとしても、自分の血筋をたどっていけば誰かしらそういうことをしている。責任の問題とは別に、個人の罪と罰について考えたときのグレーゾーンというか、言い訳とか一概に言えないようなことを突き詰めていくようになりました。
マライ この小説自体、罪の意味のようなものを解きほぐしていく話ですよね。結局、あのとき見たあれがまずかったのか、みたいな。日本人が戦争を考えるときにドイツに価値がある点は、日本がただでさえグレーなものをよりグレーにして曖昧にしてきたのに対して、ドイツの場合はアウシュヴィッツを見てもわかるように、言い訳のきかない極端なことを現実にやってしまったことにあると思います。極端に極論を具体化するとこうなりますよみたいな。なので、戦争について考えるときの思考の触媒としてドイツを活用するのは有効なのではないかと思います。
深緑 やっぱり、触媒としてナチスが使いやすいというのは言い訳としてありますね。それだけドイツがいろんな国から評論されたり、バッシングされたり、ドイツ人自身も自国を見つめ直して議論を重ねてきたから、他国の私も創作がやりやすい、というか甘えているんですけど。それを通じて日本の戦後というものを考えたときに、ドイツとの違いを一回クリアにしたかったというもありました。

     ◇

深緑 一番最初に戦後ドイツを書こうと思ったのは、アメリカ軍の軍政府の雇用事務所でドイツ人たちがアメリカのタイムカードを押していく行列の映像を見たことがあって、それがすごく面白かったんです。みんなホッとしているような、照れているような顔をしていて。戦争中、その人たちがナチスと一緒に何をしたのかはわからないけど、戦争が終わった今はみんな裸になった感じというか、理論武装とか思い込みの鎧がバラバラと崩れて自分の中身が出てきて、滑稽というと語弊があるけど、変なうしろめたさみたいな……。
マライ それまでの貯金がチャラになっちゃったみたいな?
深緑 そうそう、居心地が悪いというか。これからみんなで戦争犯罪を反省していきましょうというのとも違うし、敵国が国内を侵略しているけど頑張って自分たちのアイデンティティを失わずにいるぞ、という気概とも違う。普通の人の照れ笑いみたいだった。それを見たときに、多分これなんだろうなと思いました。大きな出来事があって「自分の天下だ」となっていた人が何も持たない人間になったとき、そこにしか見えない人間性っていうのがあるんじゃないかなと思って。
マライ それは重要な視点だと思います。最近では戦争を描くにしても加害者の内面に関心が移っているし、説得力のある物語はそこから生まれるようになっていると思う。『帰ってきたヒトラー』もある意味そうだし、地味な加害者はどのように自分に言い訳をして免罪符を買うのか、そのうえでどうやって他人を責めさいなむのか、というのはもっと多くの人が現代的な問題として向き合うべきだけど向き合い切れていないのではないか。『ベルリンは晴れているか』のラストを読んでそんなことを思いました。あそこのすごく美しくて嫌で、がんじがらめで逃げられない感じは皆川博子先生の系譜と言われるのも納得、なかなか出せない味だと思います。
深緑 執念の味(笑)。そういうの好きですね。
マライ 作中では地味な罪の意識がたたみかけるように襲ってきて、例えばT4作戦(*3)にひっかかる障碍者の話が出てきますが、彼女に対する市井の人の感情がすごくリアルに描かれていて、それは当時も今もあまり変わっていないのではないかと思います。それがどぎつくなく、さらりと書かれている。
深緑 グレーな部分もそうなんですけど、裁かなくてはならないものもあるんだろうなというのもあって。例えば、障碍者の女の子がいて、その子に対して感じた小さな居心地の悪さを消化できていないのは罪なのか、とまわりは考えてしまうけれど、子を奪われた親からすれば助けてほしかったし、周囲の対応は悪に間違いない。ナチスに大切な人を殺されたら相手を殺したいと思うんだろうし、そういう裁かなくてはならないという感情と裁けないという部分を両立させるというか。例えばヴァルターという浮浪児の男の子をあまり良い子にしたくなかったというのがそのひとつで。
マライ うん。
深緑 最初はヴァルターって良い子だな、この子なら味方できるなと思って読んでいても、彼にも「お前そういうことする?」というやばい点を持たせたかった。友だちでも「この点は良いのだけど、こういうところはちょっと」と思うところはあるので、結局それをたくさん出すしかなくて。ヤミの食堂でワニを食べるか食べないかという場面でも、動物を保護したいと思う人間と食べないと生きていけないと思う人間がいて、私自身は人間が死んでも動物は保護しなくてはと思ってしまう過激派なのですが、でもあの場にいたらそういうふうには言えない部分がある。でも守りたいという人間の気持ちもわかる。
マライ 『ベルリンは晴れているか』では大体の人が自分の免罪符を買うのに失敗していて、彼らは主人公もふくめて矛盾をコントロールできていない人たち。唯一、元動物園の飼育員で戦争で散らばった動物を探して面倒を見ているヴィルマという女性は矛盾をコントロールできているように見える。〝現実的な妥協点はここで、ここで帳尻を合わせるんだ〟っていう。そういう意味で、ヴィルマはこの小説の唯一の光なんだけど、あまりそこが強調されないのがいいですね。あくまで脇役として去って行くところが。
 やっぱり主人公が安易に光明を見いだせないところが良いんだろうなという気がします。今のような価値観が乱れている世の中で読まれるということを踏まえると、加害者たちの視点を多層的に今にも通じるかたちで描いたというのが一番おいしい部分かもしれませんね。

     ◇

マライ 今作を書くにあたってベルリンに取材に行かれたそうですが、ベルリンの魅力って何なんでしょうか?
深緑 行く前と行った後とで違うんですけど。そうそう、マライさんにベルリンはタクシーの運転手が怖いから気を付けてって散々言われたんで乗らなかったんですよ(笑)。
マライ それでよかったかもしれない(笑)。
深緑 行く前は東ドイツの印象がすごくあったというのと、これまで行ったことのあるロンドンとニューヨークという大都市と比べてどんな雰囲気だろう、という関心があったんですけど、行ってみると街がすごく翻弄されていて、いまだに落ち着いていないという感じがしました。
マライ はいはい。
深緑 空襲があったときに燃えたままのジードルング(*4)なんだろうなというのがいっぱいあって。本当なら続いているはずの建物の部分がごそっとなくて公園になっていたり、おそらく復興のときに建物を建て直すよりは空けておこうとなったんだろうなと思うところが多かったです。
 そして、東側にはやっぱりプラッテンバウ(*5)が多くて。ナチの官庁や総統官邸などがあったところにソ連らしいプラッテンバウがずらっと並んでいて、しかもソ連がなくなった後もそのまんまあって普通に人が暮らしてる。この街に住んでいる人たちはそれを全部残しているんだと思いました。
 例えば日本は都合が悪くなると隠してしまうじゃないですか。穢れ思想みたいのがあって、良くなかったものは洗い流したり、取り壊して終わりにして、記念碑的に残すにしても、けっこうな議論が起きたあげくにちょっと欠片だけ残しておくとか。残したら残したで注連縄で囲むとかして「場」にしてしまう。でもベルリンは残したり使い続けたり、例えば旧ユダヤ人街には弾痕と砲弾のあとですごい削れているところがあっちこっちにあって。こういうのを見て嫌な気持ちになるから日本なら撤去しようとするのじゃないかと。
マライ それか綺麗にしようねとなるかも。
深緑 やっぱり日本人は枢軸国同士だったというのもあって、ドイツに共感しやすいというのがあるんだけど、民族性はかなり違うなと感じました。思想の根本にあるものが違う。今の日本人には、江戸時代の長屋と最近の近代建築が隣りあっていて、住んでいる人の階層にも特に差がないという状況を想像しにくいと思うんですけど、ベルリンの人はそういう状態で暮らしているんですよね。
マライ ドイツは継続性がデフォルトで、日本は数十年単位で外も中身もリセットすることが前提の文化なのだと思います。日本の長屋ってそもそも百年もつように作られていないじゃないですか。それの良しあしは一概に言えないけど。
 例えば、ベルリンにはソ連の戦勝記念碑があってそこには戦時中のソ連のT34戦車が飾られています。ドイツ人にとっては不愉快なもののはずなのに、なぜ残しているのかというと、あれにもそれなりに価値があると判断されているからなんです。
深緑 それはすごいと思います。
マライ その保存精神が、ナチスが略奪した美術品がちゃんと元に帰ったのはナチスが生真面目に帳簿をつけていたから、というのにもつながります。
深緑 ユダヤ人が絶滅収容所で死んだとき、その死亡通知をちゃんと出していたという。そういうのを潔癖なくらいにドイツはやりますよね。
マライ 歴史の中で悪というものを、ここまできれいにシステム化したのはドイツ人のナチスのときだと思います。
深緑 そのシステムが矛盾すると、その矛盾を補うためにまたシステムを作って、またそのシステムにずれが生じたらまたシステムを作って……、どこまで行くんだろうと。
マライ 日本人との対比ももちろんですけど、ドイツ人はドイツ人でやっぱり変なところがあって、それが何なのかというのを世界的な基準と照らし合わせて検証するということもまだ残っていたりするから、結局ナチスはまだ掘りつくされていないと思います。さっき、深緑さんはナチスを触媒として利用させてもらったと言ったけど、そんな謙虚でいることはなくて、ナチスはさんざんネタにされた割には同じ方向から何回も掘り返されている感じで、まだ掘られていない部分はたくさんあるはず。それを『ベルリンは晴れているか』はついたのだと思います。まだ他にもいろいろあるはずなので、当事者がいなくなってからむしろ期待できる部分もあるから、今後頑張りましょうというところですね。
深緑 やっぱり普通の国だったら自分の国をそれだけ根掘り葉掘りやられるって嫌な気持ちになるよね? って思うけど、ドイツの人は議論や分析が好きだからなのか分からないけど、やっぱりすごい土壌だなと思います。
マライ 私はドイツ人として日本人の深緑さんにドイツの歴史を書かれるのは不愉快でも何でもなくて、何の違和感もなく読めました。戦後のベルリンの描写もすごく調べてるんだろうなとわかって逆に勉強になったし。最初のほうに、アウグステが仕事を終えてもまだ外が明るいという描写がありますが、そうなんです! 七月はまだ明るいんです(笑)。でもドイツ人だと当たり前だからこの描写は書かないんですよ。そういうドイツ人じゃない部分が私は逆に良い。ドイツ人に書けないところを書いていると思うんで。

*1 『ベルリン1919』『ベルリン1933』『ベルリン1945』(いずれも酒寄進一訳、理論社刊)
*2 一九四二年から三年間、ナチス宣伝大臣ゲッベルスの秘書として働いた女性
*3 ナチスが優生学思想に基づいて精神病患者などに対して行った安楽死政策
*4 一九二〇年代にドイツ各地で建築された集合住宅
*5 東ドイツ時代に建てられた規格住宅

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