男らしさの不調が、コミュ障を含む一種の障害として表象されるなら、問題はその「治癒」のいかんということになるだろうか。
マイク・ミルズ監督作品は、この問題を考える上で特権的な位置にある。前回紹介した『人生はビギナーズ』(二〇一二年)に先んずる『サムサッカー』(二〇〇六年)の主人公は、指しゃぶりをやめられない一七歳の青年ジャスティンである。彼は物語の半ばで、ADHDの診断を受けて薬剤を処方され、ずば抜けた集中力と言語能力を獲得し、学校のディベート・クラブのエースとなる。ジャスティンの障害からの「治癒」は、コミュニケーション能力(この場合はディベートの能力)の獲得、そして異性愛の主体という意味での男らしさの回復と一体となっている。
以上の要約では、この作品は初回に論じた『恋愛小説家』を踏襲しているように見える。障害の治癒がすなわち男らしさの回復であるという意味で。だが、『サムサッカー』は、最終的に治癒を拒否する。ジャスティンは薬を捨て、指しゃぶりも「正常な自己」の一部であると認める境地に至るのだ。マイク・ミルズは、障害が取りのぞかれ、「治癒」したところに本来的な男らしさが現れるという観念を拒否し、治癒をともなわない別の男らしさ(という名で呼びうるとして)を探究しているように思える。
これは、片方では規範的で息苦しい男らしさからの解放ではある。しかしもういっぽうで、「治癒なき主体」は、新自由主義・ポストフォーディズム的な「完成しない/生成しつづける主体」の観念と親和的なものでもある。それは、「障害のあるあなたも正常なあなたなのだから、福祉に頼らずにがんばって自活しなさい」と言うからだ。新自由主義は男らしさの規範からわたしたちを解放してくれるかもしれない。だが、それは治癒なき主体を生き続けよという別の規範をわたしたちに課す。前回述べた老後の否定を思い出していただいてもよい。老後は人格の完成の時間ではない。終わりなき生成の時間だ。『人生はビギナーズ』の父(同性愛を「治癒」することを拒否し、治癒のあり得ない癌に冒されている)は、まさにそのような老後を過ごす、治癒なき主体として息子オリヴァーに立ちはだかるのだ。
この袋小路から抜け出すヒントが、マイク・ミルズの最新作『20センチュリー・ウーマン』(二〇一七年)にはあるかもしれない。この映画では、『人生はビギナーズ』における「ケアする息子」像がアップデートされつつ、それまでの二作品で重要ながらも中心には据えられなかった母息子関係が正面から問われる。詳しくは別論したが(『すばる』二〇一八年五月号)、主人公のジェイミーは、フェミニズムを学び、母を含む女性たちのケアをすることを通じて成長していく。その成長のあり方は、ジェイミーが形成していく「男らしさ」は、私たちが知っているどんなものとも異質である。こじれた男らしさからの脱出口は、ここにあるかもしれない。
PR誌「ちくま」10月号より河野真太郎さんのエッセイを掲載します