お待ちかね、長らく品切れが続いていたパウル・クレー『造形思考』が文庫になって再登場した。これまでクレーの展覧会は何度も開催されているし、ファンも多い。立派なカタログや日記などは刊行されているが、彼自身の理論的著作であるこの『造形思考』は気軽に手に入る状態ではなかった。それがようやく解消されるのはとてもうれしい。クレーは画家としてだけでなく教師としても「天賦の才」があったというが、実作同様に整理魔であって、絵がいかに生成していくのか、それを(言葉という形式の限界に苛立ちながらも)順序立てて事細かく語る、それがこの講義ノートを主体とした本書の性格である。実作と理論的な仕事を分離して見ないでほしいとは本人の弁。しかしクレーの絵をそんなに見たことがなくたって絵の面白さ、フシギさをこの本からたくさん学ぶことができる。本書によって、百年近く前の白熱講義を受講する学生気分が味わえるわけだ。
絵とは何か。
そんな単純で純朴な、古風な青年風のたった一つの問いかけに繰り返し突き動かされて、クレーはこのノートを書いている。いや、優れた芸術家が物を書くなら、かならずそうだろう。そしてそれが素朴すぎると言うならこう言い換えよう。絵の中で何が考えられるのか。それが彼の十年に及ぶバウハウスでの講義の使命ではなかったか。
一枚の絵が誕生する――まず、点が生まれ、点から線が発生し、面が形成され、面によって空間が立ち上がる。空間はかたち(フォルム)を宿し、かたちは色を身にまといながら一枚の絵の可能性を押し広げる。一枚の絵は、それを見る人間、すなわち鑑賞者を「創造」する――絵という場が、一枚の表面であることにとどまりながら、様々な「力」が作用し運動する錯綜体であるということが、上下二冊、そのカルテのような図入りの膨大なページの束をめくるたびに、まざまざと伝わってくるだろう。
そう、本書はまさに医者の書くカルテであって、絵という世界がどのような反応と効果を維持しているのか、どんな運動機能を保持しているのか、その診断内容が書き込まれている。「いっぺんに作品を理解しようなどと考えることは慎まねばならぬ(残念だが、ときとしてそんな鑑賞のしかたがされることは事実である)」とクレーは書く。フォイエルバッハを引き合いに出しながら「一点の絵を理解するには椅子が必要だ」とも書きつける。「作品を鑑賞する側にとっても、最も大切なのは、時間である」、彼はズバリと書かずにおれなかった。絵には、人間の目が一挙にとらえられぬほどの膨大な情報が押し込められているのであって、実に多岐にわたる。しかも「一枚」という空間の中で押し合いへし合い常に連携し合ってバランスをとっている。鑑賞者を前にしてそれは静止しているように見えるし、実際その通りなのだが、「それにもかかわらず、わたしたちの作品は運動そのものである」。クレーの講義の核心は、そこにある。絵を、人間の目がいかにみ損ねるか。絵が、いかに軽やかに視線を逃れていくか(天使のように?)。そのような絵の複雑さ、敏捷さに圧倒され続けること。クレーは言う、絵に目的などない――「幸せ」を除いては。その素朴な「答え」は読者にこんなエコーとなって響くだろう、むしろ、絵の世界から人間が見られている、そのことを恐れよ。そして絵を見つめ返し続けろ。なぜならそれは、終わりのない「運動」なのだから。
読者は何度もつまずくだろうと思う。端的に、先生何を言ってるかわかりませんと思うだろう。でも、それでいい。読者が、クレーの書き綴る言葉を追いかけながら何度もつまずく、立ち上がってまた文字を追い始める、そんなとき、まさに視線は運動しているからだ。『造形思考』は、点から始まったクレーの思考の到達点であり、同時にスタートラインでもある。考え続けるために引き直され続ける、スタートライン――彼の原稿もまた「絶えず訂正、補足されていった」そうである。つまり、動き続けていた。
(ふくなが・しん 小説家)