最近、デビュー作『独り舞』の中国語繁体字訳を手掛けている。来年に予定されている台湾での出版に向けての、まさかの自作自訳なのだ。翻訳作業は、二年前の自分が書いた文章をもう一度舐めるように読み直す機会を与えてくれた。主人公の趙紀恵は台湾で起きた「災難」の記憶から逃れるべく、「忘却」を求めて日本へ渡る。しかし日本でも何度も忘却の不可能性に突き当たり、その度に悶え苦しむのである。
記憶は痛みを伴う。即席的な忘却がそこかしこに転がっていればそれほど都合の良いことは無い。いつまでも古傷の記憶に捕らわれていては、前へは進めない。個人然り、国家や歴史もまた然り。それでも滔々たる大河を堰き止めるかのように忘却に抗おうとするのは、もはや蛮勇と言うほかない。
胡淑雯『太陽の血は黒い』(あるむ、三須祐介訳)はそんな蛮勇を見せつける、記憶の書だ。二〇〇六年に初の短編小説集『哀豔是童年』(邦訳なし)を上梓し、「妖気」(怪しげな艶めかしさ)溢れるような言葉遣いと語り口で好評を博した著者による二冊目の小説となる。原書は二〇一一年に、邦訳は二〇一五年に出版された。原書が三四六ページ、訳書が四五〇ページにも及ぶ掛け値なしの長編小説だ。
全十九章からなるこの小説の話題は、白色テロ、政治犯、精神障碍者、身体障碍者、レズビアン、インターセクシュアル、トランスジェンダー、性暴力被害者、自死念慮、貧困、階級など、実に多岐にわたっている。一つだけ取っても極めて重たいテーマをこれでもかと詰め込んだこの小説は、もちろん全てのテーマに対して等しく深掘りできているとは思えない。しかしながら、生きる痛みを分かる読者には、作者の書かずにはいられない切実さがじわじわと伝わってくるはずだ。
とりわけ歴史の記憶に力を入れている。一九四九年から一九八七年まで、三十八年間にわたり台湾で敷かれていた戒厳令は、決して名誉ではない世界最長記録だ。白色テロとも呼ばれていたその時代に、多くの人々が国家反逆という無実の罪を着せられ、投獄されてしまう。彼らの多くは独裁政権の下で銃殺され、幸か不幸か生き延びた人も年老いたり、認知症や精神障碍に罹ったりして、自ら言葉を発することができなくなっていた。そして戒厳令が解かれ、時代は真新しい世紀へと向かう。旧時代の傷の記憶は新世紀では足枷にしかならず、政府が申し訳程度に謝罪と賠償をすると、「もう過ぎたことだから忘れよう」と忘却に走る人も多い。
そんな安易な忘却に、作者はこの小説をもって真っ向勝負を挑んでいると思えてならない。今や賑やかな商業施設や豪華な高級ホテルは、かつては政治犯収容所や処刑所だったなど、歴史の傷を抉るようなそんな言及も、記憶のための努力と言えよう。小説の中にもこう書いてある。「治癒とは忘却のことではないし、終わりがなければだめだというわけではない。治癒とは痛みを背負い続けることであり、自分がなぜ痛みを背負うのかを知ることであり、それでもって痛みに耐えられるようになることである」と。
個人にとって、忘れなければ生きていけないような記憶があれば、忘却を希求してもいいのかもしれない。しかし歴史はそういうわけにはいかない。いつ疼き出すか分からない記憶と共存しながら、人間は前へ進まなければならない。『太陽の血は黒い』は、記憶と共存する手段を模索するための小説だ。
紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホ、タブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。 【李琴峰(小説家/翻訳家)】→→西島大介(漫画家)→→???