いきなりですが、翻訳とはどんなものでしょうか?
文芸翻訳の授業や講座でこう尋ねると、いろいろな答えが返ってきます。
「外国語を日本語に忠実に移し替えること」
もちろん、そのとおりですね。
「原文の意味だけではなく、ニュアンスやリズムなども日本語で表現する行為」
高度な回答ですが、そのとおりです、そこまで意識してのぞんでこそ翻訳と言えますね。
「原文に劣らない文学性や表現力をもつ日本語に仕上げること」
おっと、翻訳者への要求がどんどん高くなってきました。たしかに、「翻訳とは原文と等価であるにとどまらず、独創性や批評性、より高い芸術性をもつべし」という認識が、世界の文学界に広まっています。まったくもって、そうありたいものです。
いま右に挙げた回答はどれも、翻訳の主な作業は訳文を「書く」ことだと解釈しているようです。しかし、みなさん、ひとつ忘れていないでしょうか? 訳文を書く前に、することがあります。そうです、原文を読むことです。じつは翻訳とは、「原文を読む」部分の重要性が八割か、九割ぐらいではないかと、わたしは思っています。一語一句を訳すには、一語一句を精読し、的確に解釈しなくてはなりません。
つまり、翻訳というのは大部分が「読むこと」であり、精密な読書、あるいは深い読書のことなのです。
研究者や評論者は作品を読んで、自分の論文なり批評なりを書きますが、翻訳者も原文を読みこんで解釈をします。翻訳とは一種の批評なのです。しかし翻訳者が書くのは、その作品の論評ではありません。作品そのものを書くのです。他者が書いた文章を読んでインプットするだけでなく、それを今度は自分の言葉でアウトプットする。原文の一語一句をあなたの読解と日本語を通して、まるごと書き直していくわけです。だから翻訳とは〝体を張った読書”だと言えるでしょう。翻訳とはその作品の当事者、実践者になりながら読むこと。 「批評が作品へのかぎりない接近だとすれば、翻訳はその作品を体験することである」と言ったのは、フランスの有名な翻訳学者アントワーヌ・ベルマンでした。この「他者の言葉を生きる」スリルは精読するだけでは味わえないものです。声優さんの仕事の楽しさと少し似ているかもしれません。
さらに言えば、作品のテクスト(書かれている文章とその内容)を、翻訳を通して「体感」することで、自分にとってよくわかる部分、わからない部分が、より明確に見えてくる効用もあると思います。原文や訳文を読んでいるとき、「なんだか妙な表現でひっかかる」とか「さっきとつじつまが合わない」などと思いながらも、読み進めることがありませんか?翻訳では、そうした箇所も飛ばすわけにはいかないので、そのわからなさをまじまじと見つめることになります。さらに、その英文を日本語という別な言語に移す行為を通すと、その作家の文体の癖が浮き彫りになったり、かくれた意図(皮肉、ジョーク、あるいは気遣い……)が現れてきたり、作中人物の意外な性格が露わになったりするでしょう。
わたしも『嵐が丘』や『風と共に去りぬ』『灯台へ』『アッシャー家の崩壊』を訳して=体を張って読んでみて、初めて気づいたことがたくさんありました。
たとえて言えば、バレエダンサーの動きやそれが表現するものをつぶさに見て批評するのが舞踏評論家なら、バレエダンサーの動きやその奥にあるものをつぶさに見て読み解きながら、なおかつ一緒に踊るのが翻訳者です。ある優雅な姿勢をとるには、体のどこの筋がぴんと引っ張られるか、関節をどんなふうに曲げているか、腰のどのあたりに負荷がかかっているか、踊り手と同じではないにせよ、擬似体験をすることになります。水泳にたとえれば、スイマーの泳ぎの解説をしながら一緒に泳ぐようなものです。そんなことは、物理的に両立できないと思われるかもしれませんが、そのとおりです。両立できない無茶なことをやるのが、翻訳だとも言えます。
ですから、気を楽にして取り組みましょう!