三年ほど前、アメリカへの引っ越しを機にばっさり蔵書を整理した。東京の住まいと仕事場を引き払い、電子書籍で入手可能なものは電子書籍へ移行して紙の本を手放し、合計して四つ五つほどあった書棚を夫婦で一つにまで圧縮した結果、手元に残った本のラインナップは、ちょっとおかしなことになっている。
最も幅をきかせているのは、絶版になった古い本、大判の画集、私家版の同人誌、その他の規格外な本たち。装幀に惹かれて買ったものの長年積んだままにしている未読のタイトルも目立つ。話題の新刊やベストセラー、やたらとかさばる長編少年漫画などがごっそり抜けた棚を眺めていると、大国が黒く塗りつぶされた世界地図を見ているような、不思議な感覚だ。繰り返し手に取る愛読書を一番前に置くルールも瓦解し、つい先日たまたま読み終えたばかりの本が手前に並ぶ。
たとえばビルギット・ヴァイエ『マッドジャーマンズ ドイツ移民物語』(山口侑紀訳、花伝社)は、評判を知って買おうとしたら電子版がなかった。日本出張時にAmazonで注文して宿泊先に届くよう手配した紙の本を、スーツケースに入れて持ち帰り、ニューヨークの自宅で読んだ。1970年代末、内戦中のモザンビークから労働者として東ドイツへと渡った三人の男女の物語、このグラフィックノベルはドイツ語で描かれ、日本語に翻訳されているが、英語版は出ていない。
読み終えて一歩アパートメントの外に出ると、何事もなかったかのような顔をして資本主義国の、移民だらけの街が広がっている。話しかければ一様に英語で応え、ビヨンセが流れれば行きずり一緒に口ずさむ人々が、家で何語のどんな本を読むのか、私は知らない。風に運ばれて一粒だけおかしな場所に落ち、なんとか無事に芽を出したものの自分でも居処に半信半疑でいる種子。私も、私の書棚に挿さった母国語の本も、彼らも、彼らの書棚に挿さった母国語の本も、そんなふうに首を傾げている気がする。
部屋から消えた蔵書の大半は、電子書籍端末に吸い込まれている。スマホ画面より読みやすく、カバンの中でもかさばらず、灯りを落とした寝室で読んでも目が疲れないのがよい。市内には和書の書店もあるのだが、のちのち電子化されそうなものは紙で買わずに気長に待つ。どのみち「時差」は生じるのだ。
とはいえ、津島佑子コレクション第1期第一回配本『悲しみについて』(人文書院)の電子版があると気づいたときは面食らった。これまた次の日本帰国時にでも入手しよう、墓前に詣でるつもりで厳かに、追悼の紙の束を押し戴こう、との強固な思い込みがあり、まさかKindleで読めるとは想像もしていなかったのだ。
音楽の世界では、主流となった配信販売との対比で、CDなど実体あるメディアのことを「物理」と呼ぶそうだ。単行本や文庫本で繰り返し読んだ津島佑子作品も、「物理」を離れて読むのは初めての経験である。1985年、長男の死を機に紡がれた連作をダウンロードする。かつて存在し、すでに居なくなり、だが流れゆく時間の中に今なお留まっている、死んだ息子の姿が、作品と作品の境目も曖昧に、電子ペーパーの上をするする往き来する。
家の住み替えについての描写が繰り返されるなか、「人には自分の生活の器を際限なく夢見続けるという本性でもあるのだろうか」という問いかけがある。作家の没後に編まれた選集で、亡くなった子供が描いた理想の家の設計図を再訪する。まだ学生だった頃、紙の上で招き入れられ、指で辿ったのと同じ間取りだ。
今はこんなところへ移っていたのね、と思いながら、音も立てずめくられてまるで持ち重りのしない、あと残り何ページあるのかもわからない新しい本の器の上で、懐かしい幻の住まいを辿る。顔を上げると真昼、すっかり住み慣れた新しい異国の街にいて、しかし新しい部屋に収まりきらなかった私の幻の書架も、かたちを変えて、たしかにここまで引きずられてきていることを知る。
紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホ、タブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。 【岡田育(文筆家)】→→千野帽子(エッセイスト/俳人)→→???