脚本というのは、人目に触れない文字だ。そして、脚本家とは文字として人目に(スタッフ以外)ほとんど触れることの予めないことを前提の上で文章を書くのが仕事だ。例えば、画や音になる為に必要なプログラム・コードを書いているようなものでもある。そう。脚本家はプログラマーといってもよいのではないか。それゆえに定着していない「可能性を保留」された言葉を紡ぐことになるし、読むことにもなる。
そして、脚本を読むということは、普通の小説を読むのと違った快楽がある。そこには保留されたがゆえに自由な可能性を感じることが出来る。ただし、仕事で脚本を読む時には、よりよくする可能性となる代案を思考しながら画や音をたぐり寄せるように精読する。推敲する。ゆえに過程が重い時もある。そんな時には逃避としての読書をすると通常よりも集中することが出来る。不思議なもので、既に定着した(かわることのない)文字を読むと身を委ねる安心感がある。その上、資料調べなどの仕事ではない読書は逃避のような背徳感がある。
『ユービック:スクリーンプレイ』フィリップ・K・ディック(浅倉久志訳、ハヤカワSF文庫)
「ブレードランナー」や「トータルリコール」をはじめとした数多くの映画で原作を(ほぼ死後に)提供したフィリップ・K・ディックが残した唯一の脚本である。自ら原作となった同名小説を映画化する為に書いたが、企画が頓挫した為に映像化されることのなかった脚本とある。もしかすると脚本という作業は、彼にとって逃避だったのかもしれない。何故なら、自分の作品をリメイクするかのようでありながらも原作の悪夢的な展開からラストが、微妙にハッピーエンドへと傾斜するのだ。驚きのシミュラークル展開。これ原作者以外がやったら、怒られるだろうな。その上、脚本家としてはなかなか禁じ手の、かかる音楽まで指定するスタイルは、まるで小説のユービックを書いたときにどんな音が鳴っていたのかを教えてくれるかのようで楽しい。彼の逃避だったかもしれない脚本が、映像化され完成していたら映画によって小説の悪夢からの脱出することが出来たのかもしれない。
『失われた宇宙の旅2001』アーサー・C・クラーク(伊藤典夫訳、ハヤカワSF文庫)
クラークだって人の子だ。キューブリックを相手にしたら、何度だって推敲する。そして、何度も何度も書き直しているうちに正解がわからなくなることもあるだろう。なんといってもキューブリックは小説を書いてほしいワケではなく、映像にする為のプログラム・コードを欲していたのだから。そういう意味で、この『失われた宇宙の旅2001』はクラークとキューブリックの逃避行といった趣で読むことが出来るのが楽しい。まるで脚本会議をのぞき見るようなメイキングである。各場面のボツとなったアイデアが小説のカタチとなって読むことが出来る。なんせあのHALがロボットとして乗船していたり、映画のラストのかわりに最後に宇宙人と彼らの暮らす文明が描かれていたりもする。もしも、あの映画「2001」にそんなシーンがあったとしたらと妄想するだけで楽しい。そんな書きかけの断片とクラークが悪戦苦闘する様子を綴ったエッセイまで読める。そして、しみじみ思ったことは推敲するのは大切だということだ。さてと、逃避はこれくらいにして脚本の推敲にもどらなくては……。