昨日、なに読んだ?

File19. 江本純子・選:旅で読めなかった本
佐藤泰志『海炭市叙景』、藤子・F・不二雄『ドラえもん』、平田オリザ『演劇入門』、崎田ミナ(著)福永伴子(監修)『ずぼらヨガ』、Cozy『海外ドラマはたった350の単語でできている』、芥川龍之介『藪の中』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホ、タブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。 【江本純子(劇作家/演出家/俳優)】→山田航(歌人)→???

 2017年8月、セゾン文化財団のサバティカルという制度を使って旅に出た。海外で休息・充電したいアーティストに対して渡航費と滞在費として上限100万円の助成金がおりる。アイスランドとハワイに行きたい、経由地はカナダ。旅のテーマを決めて申請し、採択された。そして、34日間にわたる、とにかく「休む」ための旅が始まった。
 それにしたって、「休む」ってのは一体どういうことか。心身共々、仕事や創作を一切忘れて、旅の時間に身を委ねる。体験して実感したが、これがほんとにほんとに難しい。どんなにぼうっとしたって、生活のつまらぬ諸々をちまちま考え始めてしまう。いいからとっとと解脱せよ。わたしは自分の身に何度も問いかけた。何を見たって、誰と会ったって創作に結びつける。これまでのわたしの生活を考えると、本は、解脱的にも、不要なのではないか。
 それでも「休む」ことのひとつとして、インプットのためではなく、ただの優雅な読書をしたくなる時間が訪れるかもしれない。フランス人的旅の過ごし方といえば、海辺で本を読むやつ、わたしがやってもバカみたいだけど、ちょっとやってみたい。出発前にiPadのKindleアプリに本を3冊ダウンロードした。佐藤泰志さんの『海炭市叙景』(小学館文庫)、藤子・F・不二雄『ドラえもん』第1巻(小学館)、平田オリザさんの『演劇入門』(講談社現代新書)。わかっている、旅のお供としても海辺の読書にも不向きそうなセレクトだということは。だって『ドラえもん』は寂しくなったときのために。『演劇入門』は旅先でもう一度演劇を見つめなおそうと思い当たったときのために。 『海炭市叙景』は旅前のわたしの心境で、旅とは関係なく佐藤泰志さんの作品を欲していて、つまり生活の続きとして。それと現物の本は一冊。崎田ミナ著・福永伴子監修『ずぼらヨガ』(飛鳥新社)。これは大自然の中でヨガでもやったれ、と思って。
 結果として、『ドラえもん』は寂しくなる前の、東京からアイスランドに向かう最初の経由地アブダビに向かうまでの機内にて、さっそく読み終わってしまった。その後旅中に何度も寂しさや孤独に襲われようとも『ドラえもん』を読むことは一切なかった。『海炭市叙景』は国から国へ渡るときの機内で何度か読み進めていたが、次第に物語に触れることが億劫になってしまい読まなくなった。『演劇入門』に関しては、一回も開いていない。普段はバイブル的に楽しんでいるオリザさんの本も、旅中は「演劇」って文字を見ると、東京に引き戻されるような、実家から親に呼ばれているような気持ちになった。これらの本が悪いのではない、ただのわたしのセレクトミス。旅の前のわたしは、長いひとり旅への不安や緊張から、判断能力に欠けていたことを自覚している。宿や移動のための予約とキャンセルを繰り返していたし、バックパックを買ってみては「やっぱりトランクでいいじゃん」と返品したりと、くだらぬ迷走を繰り返していた。
『ずぼらヨガ』はアイスランドのソールスヘプンという、ものすごく北の果ての町に滞在したときに、めくった。わたしはこの町で旅人にはひとりも会わなかった。ソールスヘプンの中心部からバスで13kmほど国道を走って、そこからの砂利道を歩いてゲストハウスに向かう。国道を走る車も数分に一台通るか通らないか。ゲストハウスまでの砂利の道のりは、緩やかな坂を昇ったり降りたりを繰り返す。あたり一面なーんもなくて、なーんも見えなくて、なーんの人の気配もしない。この坂昇ったら見えるかな、と登り切るとまた下り坂があって坂を登る。これの繰り返し。なかなか現れないゲストハウス。本当にあるのだろうか。何もなくただ空だけが広がっている景色に不安で仕方なくなり、不安さえもどうでもよくなってきた頃にようやくゲストハウスらしき建物が見えた。国道から降りたとき砂利道の入り口に立っていた小さな看板には宿まで2kmって書いてあったけど、2kmどころの話じゃない。絶対3km以上はあった。わたしは普段ランニングしているので1kmの体感はなんとなくわかる。何もない3kmの道は天国への道のようでもあるし、ゴールの見えない果てしない地獄でもある。

ソールスヘプンの何もない道

 

 なんもない道を歩いて見つけたゲストハウスの周りもやはりなんにもなかった。すごく小さい集落で、三家族くらいが広大な敷地の中で暮らしている。隣のおうちは500m以上先に見えるし、その隣のお家は1kmくらい先に見える。その間に馬や鶏のためのお家はある。羊ももちろんいる。静かでのどかすぎる道を散歩していたら突然「メェ」って宇宙人みたいな声がして、振り返ったらつぶらな瞳の羊がわたしを見ていた。いま、わたしに話しかけたよね? 「メェ」って。「おい」じゃなかった。顔では「おい」って顔していたけど、ちゃんと「メェ」と言った。羊と交信していると馬が遠くからスローモーションで近寄ってくる。また歩いていると1km先から犬がやってきて、何か問いかけてくるが、わからない。こんなような動物との交流はしょっちゅうだったが、人を見かけたのは1km先の家の主人と息子だけ。この滞在地で、人と交流したのは、ゲストハウスの主人とマダムだけだった。

話しかけてきた羊

 

 主人は屋根に昇ってずっと大工仕事をしている、熊みたいな人。マダムも熊の奥さんって感じでふくよか。このマダムの焼いたホームブレッドと自家製ジャムはめちゃくちゃおいしかった。わたしは宿を出るときにそればっかりをマダムに伝えて、気でも狂ったのかと思われたかもしれない。主人たちの母屋から200mくらい離れた小さなコテージがわたしの部屋。ここで二泊。目の前には空と草原。空の位置は近く感じる。ずっと曇り空で、ちょっと薄気味悪いくらい。何もないから何もすることがなく、草原で寝転んで、コーヒー飲むかビール飲むか、あとは食べて寝るだけ、わたしもしっかり動物化していく。二泊して三日目の朝にちょっとだけ何かをしようという気になり『ずぼらヨガ』を開いた。
 コテージの前の傾斜はきつかったが、『ずぼらヨガ』を読みながらやってみた。「ずぼら」にくわえ、わたしの「なんちゃって」が加わり、もはやヨガというかただのストレッチ体操だったと思うけど、とても気持ちがよかった。しかし、『ずぼらヨガ』の解説にはこんなことが書いてあった。口角をあげながらポーズをすると脳が「笑っている」と勘違いして、効果が上がる。この記述を読んだとき、わたしは悲しくなって泣いてしまった。はは、旅しながら、そういえばあんまり笑ってないかも。微笑みはする。人とすれちがう、カフェに入る、買い物をする、ゲストハウスの人としゃべる。でも、誰かといっぱい喋って大笑い、はない。わたし、あんまり笑ってないな、この二週間。ちょっと寂しくなってしまった。
『ずぼらヨガ』を開いたのもこの一度きり。こんな調子で、わたしは旅中に本を読まなかった。景色を見ていたいから、ともっぱら音楽を聴いていた。でもアイスランド滞在中に、一冊ダウンロードした本がある。それは英会話のための本。Cozy『海外ドラマはたった350の単語でできている』(西東社)。このひと月の旅の間に、英語をもっと習得したくなったのだ。興味深く読み進めていたが、これも55%のところで本を閉じている。英語でのコミュニケーションは本を読むよりも実践を積んだ方が、俄然体に入ってくる。いまは、ただ、しゃべろう。またしても読めなかった。

関連書籍

佐藤 泰志

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